日本にとってはアメリカ同様2016年のオリンピック招致に負けたということは残念なことであったし、石原都知事を始め、高橋尚子氏、室伏広治氏(氏の感想は素晴らしかった)、小谷実可子氏らには気の毒だったとは思うが、世界平和とかオリンピックの理念、つまり公平という観点から言えばよい結果だったのではないだろうか?つまりリオデジャネイロですることによって世界で初めて南米でオリンピックを行なうことそのものが世界に齎す意味は大きいのではないか?(日本はもうかなり世界的レヴェルで言えばいい思いをしてきた国なのである)
かつてジョージ・ウォーカー・ブッシュ前大統領時代はある意味では国連機能が全く無意味であることを証明した時代であったし、小泉元総理はそういう時代においてアメリカとパートナーシップを発揮した首相であったと言える。しかしバラク・オバマ大統領となり、再び国連機能を取り戻し得る可能性に全人類が注目している。だから私はあるいは今回の世界の決断にアメリカを持ち上げるという可能性もないではないと思っていたが、そうならなかったということは、それはそれで国連のリーダーシップともIOCが独立した機能を発揮したと言って素直に評価してもいいのではないだろうか?
つまり国連は国連、世界経済は世界経済の事情があるように、しかし勿論それらはある部分では常に地球環境を保全するという観点から協力し合わねばならないが、しかしそれらとも一線を分かつスポーツ振興ということが公平な観点から存立し得るということはいいことではないだろうか?
日本の敗北は再び東京でということがあまり説得力がなかったのではないだろうか?つまり日本でも東京のような大都会ではなくもっと辺鄙な場所で開催することを提唱していればまた違った結果だったでのはないだろうか?尤もそれでも尚リオデジャネイロになっていた可能性も今回はかなり大きかったとも思えるが。
つまりあるイヴェントやプロジェクトに対してそれに立ち向かう人たちは尊いと私も思う。そしてその試みが効を奏さないことはままある。しかし少なくとも鳩山首相が掲げた環境保全に関するプレゼン自体は成功したと言える。しかし鳩山氏による世界に対するアピールは既に国連気候変動首脳会合において立証されていたのである。だからそれを再びということで漁夫の利をと言っても、世界の目はもっと公平な立場から眼差しているということである。
しかしこれまで頑張ってきた日本の招致委員会の方々に餞の言葉を送るとしたら、それはこれまでの努力が今後実を結ぶこともあるのではないだろうか?確かに2016年のオリンピックは逸したが、スポーツそのものの可能性、あるいは東京で何かをするという可能性も閉ざされたわけではない。
要するに決心をするということは、そうすることで行動を実践するということであるし、その行動の末に獲得し得る成果へと向けて努力を怠らないということであるが、その決心とはもしそのことで芳しくはない結果に終えたとしても尚、何もしないよりはずっとよかったということを意識することが出来るということなのである。その意味ではこれまで努力をされたきた方々に対して深い敬意を私は示すことに吝かではないし、再びこういう風に夢を追うという試みがあってもいいと思う。つまり一回くじけたくらいで、それ見たことか、もうそんな不遜な試みなどするものではないという内向き的な世論的空気を作ってはいけない。そもそもスポーツとは常に勝敗ということがつきものもなのだから。一回負けたくらいで「もう二度とスポーツなどしない」ということと、とどの詰まりそれは同じことなのだから。
Friday, October 2, 2009
Thursday, October 1, 2009
<200X年夏の選挙の場合>
さて最後に本章の作成の動機付けとなった近頃の選挙(200X年夏)について少しく考えてみようと思う。まず少々あのY政解散選挙と首相が銘打った首相個人の衆院解散意図とK首相権限による意志決定のプロセスを考察してから、その選挙でJ民党へ要れた有権者の内的理由をカテゴライズして考えてみようと思う。
この選挙は特殊な選挙であった。私見によれば戦後日本の政治思想史上特異な出来事としてある与党幹部だけによって病に倒れた首相の意図として幹部の思惑で発言不能状態であった首相の発言を捏造して、それ以降の政治的展開を演出した(N中氏、A木氏が中心になって)時が第一回目の国民に対するクーデターであるなら200X年夏の総選挙はまさに国会を相手に首相一人が自己権力行使という裁量によって起こした国会に対するクーデターであったと言えよう。ただ国会の発言と国民の真意との齟齬を直観した首相一人の自己裁量は、それ自体は国民の支持を得たが、その選挙制度的な矛盾から投票者の投票打ち明けとは幾分齟齬を来たし(それは今回の政権交代選挙においても垣間見られた。つまり小選挙区制度自体の矛盾が最初に表出したのが例のY政解散選挙だったわけだ)、絶対的多数の与党勝利によって独裁的色彩の強い内閣とその後の政治的展開は戦後政治史上稀に見る出来事であったと記憶されてよいと思われる。その時を回想しながら、K泉首相の立場とその決断を国民がどのように受け取ったかを機軸に考えてみようと思う。
K泉首相は今の政局の困難さを乗り切れるのは自分をおいていない、ということを当時直観的に感じていたのだ。それを乗り切るのがかなりな程度での政治的手腕と指導力を要することを熟知していた。そこで長年の野望であったY政民営化が、政治課題としてトップ・プライオリティーであるかどうかを国民に突きつけた。それも自ら「Y政解散」と銘打って。このマスメディア、とりわけ多く国民が見たテレビの首相発言は大きな影響力を国民の深層意識に植え付けた。しかもこの時首相はJ民党+K明党連立与党が過半数を取れなければ自ら退陣する、という条件を突き付けた。
仮にあの時J民党(及びK明党連立)が過半数を取れずにK泉首相が退陣していたとしよう。その時のことを多くの国民が想像した。それは首相本人によるもしもの時の退陣宣言故のことである。そうなった暁には当然のことながら、当時のM主党党首O田氏が首相となり得るし、またそうではなくM主党もまたJ民党同様過半数が取れなければ政局が混乱するという可能性も十分に想定し得た。有権者中選挙で何らかの意思表示をしようと思う者は誰しももし自分がM主党へ票を入れるとしよう、そのように仮定した場合、しかしその際に想定されたのはそれまでの政治的展開から察せられる予想においてその結果M主党が過半数を取れる可能性は極少ないと感じられたのだ。その判断によって帰結される想定結果は多くの国民にとっては、両党とも過半数を取れずに宙ぶらりんになるという状況であった。M主党が過半数を取る可能性の方がより宙ぶらりんになる可能性よりも大きければM主党に投票する選挙民が多かったに違いない。しかし事実はそうではなかった。明らかにそれまでのマスメディアの報道の仕方、注目の仕方からやはりM主党が過半数を取る可能性は仮に自分がM主党に入れた場合においても宙ぶらりんになる可能性よりも小さいということが誰の目にも明白であったのだ。そういった想定上の思惑から多くの国民は敢えてM主党に投票することで政治的混乱を招くことに至らせるなら、いっそJ民党与党に投票しようという行動へと直結させたのだと思われる。有権者中投票意志保持者の中でも取りわけ全体的バランスを取るために敢えてM主党が実権を握る可能性が小さいと思われるのに敢えてそこに投票しようということはスケプティカル・タイプが取る決断であったことであろう。しかし多くは政治的混乱を回避させるためにK泉首相に一票を投じようという決断を為したのだと思われる。少なくとも首相による日頃のメディアの前での立ち居振る舞いのみに魅せられる主婦や若者を中心とする贔屓筋以外のビジネスマンにおいては。
実は首相の側からは、そういう決断を多くの国民がするのではないかという可能性に一か八か自己の政治生命を賭けたのだった。その結果として与党大勝したことは首相の面子から言えば上々の出来であったが、実際それはやはり彼にとっては賭けであったことに変わりはない。結局K泉J民党は歴史的大勝利収めたのであった。しかしそのことが同時にその後に続く暗黙の首相一人の意図への信頼から、党全体の統一感には支障を来たし、しかもJ民党の体質自体は一向に変わらないという事実が残存していたので、結局A生首相までのポストK泉総裁における三代の継続が、総選挙を経ないままで圧倒的多数の議員獲得数を通した一党独裁と、期せずして起こった去年のリーマンショック以来の世界同時不況の煽りを食らって結局J民党に対する一度退陣して貰いたいという異議申し立てによってM主党へと政権交代となったわけである。
結果論的に言えば、首相はあの参院Y政民営化否決の際にテレビのカメラの前で「国民に聞いてみたいのです。今回の解散は言わばY政解散です。もし与党が過半数を取れなければ私は退陣します。」と述べた時、首相は事実上国民の多くを(少なくともあの放送を見ていた人々に対しては)脅したのである。
何故敢えてそうしたのか?それは彼が自分に拮抗し得る(選挙後に首相になり得る)大物候補があの時点ではいないということを薄々感じ取っていたからである。
結論としてはこう言える。つまり積極的投票者+消極的投票者(マスメディアの露出度から候補者を選択するという)数が、M主党よりもJ民党勝利に直結し得るケースにおいて少々大きかったということによって、結果J民党の大勝利(K明党を除外しても尚)へと導いた。サラリーマンの比率中更に積極的J民党支持者は決してさほど多くはない。寧ろ政策的にはサラリーマンの半数はJ民党、残り半数はM主党に入れたということさえ出来る。しかしそれ以外の多くの票はことに首相の政策からではなく、メディア露出度と立ち居振る舞い(それもまた大きな選択基準であり、重要である)から選択したというケース(あの選挙は多く今まで選挙に興味がなかったのに投票した国民が多かった。しかし逆にそれだけに選挙意義に懐疑心を抱く人々の声は掻き消された感はある)が多かったと思われる。
ここで結論的に言えることとは、あのJ民党の歴史的大勝利は現象論的には票と選挙制度から導き出される国民の支持を獲得するJ民党の作戦が功を奏したのだが、政策支持的な内実的にはM主党と五分五分の支持意識によるものであり、そこに差をつけたのはマスメディア戦略(首相、与党、マスメディア自体の連帯による)そのものであった、ということも可能である。そしてその誘引材料となったものとは、首相退陣の可能性の回避意識であった。政治的混乱が容易に誰の目にも察せられたのである。それ以上に国民にそういう判断をさせたことが、あの時点では首相に相応しい人物がK泉首相以外にはこれと言っていなかったということが大きく起因している。そして首相本人もその可能性に賭けたのだ。それに加え、敢えてJ民党に一撃を加えM主党に花を持たせるほどの魅力がM主党にはそれほどなかったと大多数が思ってしまった(それはJ民党に入れたサラリーマンにも多かったであろう)のである。
しかし予想以上の与党大勝利となってしまったことに最も大きな驚愕を味わったのはM主党にこれといった魅力がないという理由でJ民党に入れたサラリーマンであったかも知れない。それはある意味では小選挙区制度という現在のシステムの為せる業であったし、少なくともサラリーマンの中では積極的J民党支持者は恐らくそれほど多くはなかったであろう。しかも彼らにとってK泉首相の指導力に投票したのであって、決してK泉チルドレンに対して投票したのではなかったのである。結果論的に多くのK泉チルドレンを抱えることとなったJ民党執行部及びその後に組閣された内閣においては、そのような自制的精神を忘れずにいて欲しいと誰しもが思ったことであろう。どのような反対勢力をも撥ね退けるだけの絶対多数を議席数の上で獲得したのだから。あの時J民党に投票した人の中にそういう懸念を抱いた人は多い筈であろう。我々の多くはただ単にK泉首相本人の自己裁量による脅しに対してもう一度首相の力量に賭けたに過ぎないのである。
だからこそ今回の総選挙において政権交代をなし得たとしてもその議員獲得数が実に戦後最大の309議席となったという事実は、あのY政解散選挙後のK泉独裁体制以降にJ民党の首相盥回し的無策と、それを揶揄してA倍首相さえ退陣に追い込んだ選挙の神様の異名を取るO沢氏による代表時代の脅し的政治手法である。つまり今回もまたM主党に入れる以外のいい選択肢が一切なかったといことに起因するのだ。
しかし再び四年前の現実に戻ろう。
今までの200X年夏の歴史的大勝利という事実を手掛かりに選挙分析から我々は次のようなカテゴリーを得ることが可能である。J民党が議席数において絶対的多数を占めたこととなったあの時のJ民党投票選択をした有権者中の投票理由を分析すると8通りのものが考えられる。これは勝利を得た側における投票者の内的理由のカテゴリーに他ならない。
200X年夏の衆議院総選挙でJ民党へ投票する人の理由カテゴリー
A、 J民党が贔屓でその候補へ投票する
B、 J民党の政策に共鳴しその候補へ投票する
C、 首相の掲げる政策に共鳴し投票する
D、 首相の人物的な評価において彼を贔屓で投票する
E、 M主党よりJ民党が、どちらかと言えばよいと思われるから投票する。(無記名を割けるために)
F、 M主党に入れて政治的混乱を喚起することを回避させるためにJ民党候補へ要れる。
(J民党が勝利すると解かっていて敢えてM主党へ投票する人よりはやや積極的J民党未来期待論者であるものの、AやBほどその党への支持心は少ないか、あるいはM主党未来政権交代予見論者)
G、 ひょっとしてJ民党が敗北する可能性のみを避けたいがためにJ民党へと入れる
H、 M主党にだけは政権移譲させたくはないのでJ民党へ要れる
ここではFとGは多少ニュアンスが違うものの、一つと見做してもよいと思われるし、HもF、Gに近接しているが、ややM主党嫌悪の情が優先するケースである。
断っておくがここで党や首相を贔屓という選択理由を挙げたのは政策以上にマスメディアの露出が齎す贔屓筋であるところのある種の非政治的選択理由である。
上に掲げた理由の内ではAとD(とりわけD)の場合、その投票理由が政策から来たものではないから、必然的にマスメディアを通した人物像としての好感度に起因するものであり、選挙の投票理由としては例えば友人を選ぶ際のバロメーターにも共通するものの、友人の選択が上記の全ての理由が綜合的な判断として考えられるが、結局政治家の場合実際に面識ある他者に対して抱く感想とは別個のテレビを通したイメージでしか判断出来ない(マスメディアが取り上げる人物<それは別に政治家に限らず>に対しては友人と同様な意味では直に面識を持つことは不可能である故に)わけだから、繰り返し、繰り返しマスメディア、ことにテレビで放映される人物に対する(それはある程度その人物のテレビ写りがよいというイメージ性に依拠している)好感度がそうではない人物の好感度よりも勝ってゆくという側面が大きい。そしてそういった人物はそうでない人物よりもより国民的人気を獲得し、そのイメージの鮮明さから認知度の度合いが増し、よりそうではない候補者よりも選択基準において有利になるものと思われる。この種の選択基準はアメリカの大統領選におけるニクソンと相対したケネディーにおいても、カーターと相対したレーガンにおいても立証済みである。それはイメージ戦略的な意味でのパフォーマンスとワン・フレーズ・ポリティックスと俗に言われる弁舌の巧みさとも大いに考えられるのだ。またこの種のイメージ像的判断は上記のHの判断にも左右するのである。
しかしその四年前の事実が逆にそういった現実自体への辟易をも生み、それが今回の政権交代へと導いて行ったという面も否めない。
しかし四年前のような繰り返し繰り返しマスメディアに登場する人物への贔屓筋的な人気獲得が政治には実はマスメディア的な手段(テレビ等の)発生以前の歴史においても選択基準採用性に多大の貢献をしていたということは「それもまた政治の本質である」ことを証明している。そういう政治家の魅力に対する支持心は芸能界同様のポピュリズムと同様なものとして我々の日常に見出すことが可能である。よってO沢ガールズと呼ばれる今回の選挙によるマンモス数的議員たちの将来も、あるいは今回敗れ去った大勢のK泉チルドレンたちと同じ運命を辿る可能性がかなり大である。
勿論そういったカリスマ的な指導力を齎す要素は政治家の資質においても不可欠のものであるが、国民の側が政治家に対して持つべき支持心は決してそれだけではない。ある時にはそういうイメージ像を一切無視して投票するべき候補を見極めねばならないこともある。そういう意味では圧倒的大多数的な議席数という現実にはいささか警戒して然るべきである、という観点も必要ではなかろうか?スケプティカルな視点による選択基準はいつの時代でもマイノリティーであるとも言える。しかしこういった少数の意見がある意味では大多数の議席数を誇る与党的な専制的独裁性への抑制力ともなり得るという判断は決して忌み嫌うべき反体制の物の見方ではないと思われる。
だからこそ四年前の丁度反転的立場となった与党のM主党にしても今後野党から色々と揶揄される立場となったのだから、いつまでも政権交代の蜜月に浸ってもいられないであろう。特にMんなの党とか新党N本などの存在も決して馬鹿には出来ないものとなっていくことだろう。
因みに今回の総選挙でも先ほどの八つの理由が丁度M主党とJ民党の立場が入れ替わることとなってしまったことは言うまでもないだろう。
この選挙は特殊な選挙であった。私見によれば戦後日本の政治思想史上特異な出来事としてある与党幹部だけによって病に倒れた首相の意図として幹部の思惑で発言不能状態であった首相の発言を捏造して、それ以降の政治的展開を演出した(N中氏、A木氏が中心になって)時が第一回目の国民に対するクーデターであるなら200X年夏の総選挙はまさに国会を相手に首相一人が自己権力行使という裁量によって起こした国会に対するクーデターであったと言えよう。ただ国会の発言と国民の真意との齟齬を直観した首相一人の自己裁量は、それ自体は国民の支持を得たが、その選挙制度的な矛盾から投票者の投票打ち明けとは幾分齟齬を来たし(それは今回の政権交代選挙においても垣間見られた。つまり小選挙区制度自体の矛盾が最初に表出したのが例のY政解散選挙だったわけだ)、絶対的多数の与党勝利によって独裁的色彩の強い内閣とその後の政治的展開は戦後政治史上稀に見る出来事であったと記憶されてよいと思われる。その時を回想しながら、K泉首相の立場とその決断を国民がどのように受け取ったかを機軸に考えてみようと思う。
K泉首相は今の政局の困難さを乗り切れるのは自分をおいていない、ということを当時直観的に感じていたのだ。それを乗り切るのがかなりな程度での政治的手腕と指導力を要することを熟知していた。そこで長年の野望であったY政民営化が、政治課題としてトップ・プライオリティーであるかどうかを国民に突きつけた。それも自ら「Y政解散」と銘打って。このマスメディア、とりわけ多く国民が見たテレビの首相発言は大きな影響力を国民の深層意識に植え付けた。しかもこの時首相はJ民党+K明党連立与党が過半数を取れなければ自ら退陣する、という条件を突き付けた。
仮にあの時J民党(及びK明党連立)が過半数を取れずにK泉首相が退陣していたとしよう。その時のことを多くの国民が想像した。それは首相本人によるもしもの時の退陣宣言故のことである。そうなった暁には当然のことながら、当時のM主党党首O田氏が首相となり得るし、またそうではなくM主党もまたJ民党同様過半数が取れなければ政局が混乱するという可能性も十分に想定し得た。有権者中選挙で何らかの意思表示をしようと思う者は誰しももし自分がM主党へ票を入れるとしよう、そのように仮定した場合、しかしその際に想定されたのはそれまでの政治的展開から察せられる予想においてその結果M主党が過半数を取れる可能性は極少ないと感じられたのだ。その判断によって帰結される想定結果は多くの国民にとっては、両党とも過半数を取れずに宙ぶらりんになるという状況であった。M主党が過半数を取る可能性の方がより宙ぶらりんになる可能性よりも大きければM主党に投票する選挙民が多かったに違いない。しかし事実はそうではなかった。明らかにそれまでのマスメディアの報道の仕方、注目の仕方からやはりM主党が過半数を取る可能性は仮に自分がM主党に入れた場合においても宙ぶらりんになる可能性よりも小さいということが誰の目にも明白であったのだ。そういった想定上の思惑から多くの国民は敢えてM主党に投票することで政治的混乱を招くことに至らせるなら、いっそJ民党与党に投票しようという行動へと直結させたのだと思われる。有権者中投票意志保持者の中でも取りわけ全体的バランスを取るために敢えてM主党が実権を握る可能性が小さいと思われるのに敢えてそこに投票しようということはスケプティカル・タイプが取る決断であったことであろう。しかし多くは政治的混乱を回避させるためにK泉首相に一票を投じようという決断を為したのだと思われる。少なくとも首相による日頃のメディアの前での立ち居振る舞いのみに魅せられる主婦や若者を中心とする贔屓筋以外のビジネスマンにおいては。
実は首相の側からは、そういう決断を多くの国民がするのではないかという可能性に一か八か自己の政治生命を賭けたのだった。その結果として与党大勝したことは首相の面子から言えば上々の出来であったが、実際それはやはり彼にとっては賭けであったことに変わりはない。結局K泉J民党は歴史的大勝利収めたのであった。しかしそのことが同時にその後に続く暗黙の首相一人の意図への信頼から、党全体の統一感には支障を来たし、しかもJ民党の体質自体は一向に変わらないという事実が残存していたので、結局A生首相までのポストK泉総裁における三代の継続が、総選挙を経ないままで圧倒的多数の議員獲得数を通した一党独裁と、期せずして起こった去年のリーマンショック以来の世界同時不況の煽りを食らって結局J民党に対する一度退陣して貰いたいという異議申し立てによってM主党へと政権交代となったわけである。
結果論的に言えば、首相はあの参院Y政民営化否決の際にテレビのカメラの前で「国民に聞いてみたいのです。今回の解散は言わばY政解散です。もし与党が過半数を取れなければ私は退陣します。」と述べた時、首相は事実上国民の多くを(少なくともあの放送を見ていた人々に対しては)脅したのである。
何故敢えてそうしたのか?それは彼が自分に拮抗し得る(選挙後に首相になり得る)大物候補があの時点ではいないということを薄々感じ取っていたからである。
結論としてはこう言える。つまり積極的投票者+消極的投票者(マスメディアの露出度から候補者を選択するという)数が、M主党よりもJ民党勝利に直結し得るケースにおいて少々大きかったということによって、結果J民党の大勝利(K明党を除外しても尚)へと導いた。サラリーマンの比率中更に積極的J民党支持者は決してさほど多くはない。寧ろ政策的にはサラリーマンの半数はJ民党、残り半数はM主党に入れたということさえ出来る。しかしそれ以外の多くの票はことに首相の政策からではなく、メディア露出度と立ち居振る舞い(それもまた大きな選択基準であり、重要である)から選択したというケース(あの選挙は多く今まで選挙に興味がなかったのに投票した国民が多かった。しかし逆にそれだけに選挙意義に懐疑心を抱く人々の声は掻き消された感はある)が多かったと思われる。
ここで結論的に言えることとは、あのJ民党の歴史的大勝利は現象論的には票と選挙制度から導き出される国民の支持を獲得するJ民党の作戦が功を奏したのだが、政策支持的な内実的にはM主党と五分五分の支持意識によるものであり、そこに差をつけたのはマスメディア戦略(首相、与党、マスメディア自体の連帯による)そのものであった、ということも可能である。そしてその誘引材料となったものとは、首相退陣の可能性の回避意識であった。政治的混乱が容易に誰の目にも察せられたのである。それ以上に国民にそういう判断をさせたことが、あの時点では首相に相応しい人物がK泉首相以外にはこれと言っていなかったということが大きく起因している。そして首相本人もその可能性に賭けたのだ。それに加え、敢えてJ民党に一撃を加えM主党に花を持たせるほどの魅力がM主党にはそれほどなかったと大多数が思ってしまった(それはJ民党に入れたサラリーマンにも多かったであろう)のである。
しかし予想以上の与党大勝利となってしまったことに最も大きな驚愕を味わったのはM主党にこれといった魅力がないという理由でJ民党に入れたサラリーマンであったかも知れない。それはある意味では小選挙区制度という現在のシステムの為せる業であったし、少なくともサラリーマンの中では積極的J民党支持者は恐らくそれほど多くはなかったであろう。しかも彼らにとってK泉首相の指導力に投票したのであって、決してK泉チルドレンに対して投票したのではなかったのである。結果論的に多くのK泉チルドレンを抱えることとなったJ民党執行部及びその後に組閣された内閣においては、そのような自制的精神を忘れずにいて欲しいと誰しもが思ったことであろう。どのような反対勢力をも撥ね退けるだけの絶対多数を議席数の上で獲得したのだから。あの時J民党に投票した人の中にそういう懸念を抱いた人は多い筈であろう。我々の多くはただ単にK泉首相本人の自己裁量による脅しに対してもう一度首相の力量に賭けたに過ぎないのである。
だからこそ今回の総選挙において政権交代をなし得たとしてもその議員獲得数が実に戦後最大の309議席となったという事実は、あのY政解散選挙後のK泉独裁体制以降にJ民党の首相盥回し的無策と、それを揶揄してA倍首相さえ退陣に追い込んだ選挙の神様の異名を取るO沢氏による代表時代の脅し的政治手法である。つまり今回もまたM主党に入れる以外のいい選択肢が一切なかったといことに起因するのだ。
しかし再び四年前の現実に戻ろう。
今までの200X年夏の歴史的大勝利という事実を手掛かりに選挙分析から我々は次のようなカテゴリーを得ることが可能である。J民党が議席数において絶対的多数を占めたこととなったあの時のJ民党投票選択をした有権者中の投票理由を分析すると8通りのものが考えられる。これは勝利を得た側における投票者の内的理由のカテゴリーに他ならない。
200X年夏の衆議院総選挙でJ民党へ投票する人の理由カテゴリー
A、 J民党が贔屓でその候補へ投票する
B、 J民党の政策に共鳴しその候補へ投票する
C、 首相の掲げる政策に共鳴し投票する
D、 首相の人物的な評価において彼を贔屓で投票する
E、 M主党よりJ民党が、どちらかと言えばよいと思われるから投票する。(無記名を割けるために)
F、 M主党に入れて政治的混乱を喚起することを回避させるためにJ民党候補へ要れる。
(J民党が勝利すると解かっていて敢えてM主党へ投票する人よりはやや積極的J民党未来期待論者であるものの、AやBほどその党への支持心は少ないか、あるいはM主党未来政権交代予見論者)
G、 ひょっとしてJ民党が敗北する可能性のみを避けたいがためにJ民党へと入れる
H、 M主党にだけは政権移譲させたくはないのでJ民党へ要れる
ここではFとGは多少ニュアンスが違うものの、一つと見做してもよいと思われるし、HもF、Gに近接しているが、ややM主党嫌悪の情が優先するケースである。
断っておくがここで党や首相を贔屓という選択理由を挙げたのは政策以上にマスメディアの露出が齎す贔屓筋であるところのある種の非政治的選択理由である。
上に掲げた理由の内ではAとD(とりわけD)の場合、その投票理由が政策から来たものではないから、必然的にマスメディアを通した人物像としての好感度に起因するものであり、選挙の投票理由としては例えば友人を選ぶ際のバロメーターにも共通するものの、友人の選択が上記の全ての理由が綜合的な判断として考えられるが、結局政治家の場合実際に面識ある他者に対して抱く感想とは別個のテレビを通したイメージでしか判断出来ない(マスメディアが取り上げる人物<それは別に政治家に限らず>に対しては友人と同様な意味では直に面識を持つことは不可能である故に)わけだから、繰り返し、繰り返しマスメディア、ことにテレビで放映される人物に対する(それはある程度その人物のテレビ写りがよいというイメージ性に依拠している)好感度がそうではない人物の好感度よりも勝ってゆくという側面が大きい。そしてそういった人物はそうでない人物よりもより国民的人気を獲得し、そのイメージの鮮明さから認知度の度合いが増し、よりそうではない候補者よりも選択基準において有利になるものと思われる。この種の選択基準はアメリカの大統領選におけるニクソンと相対したケネディーにおいても、カーターと相対したレーガンにおいても立証済みである。それはイメージ戦略的な意味でのパフォーマンスとワン・フレーズ・ポリティックスと俗に言われる弁舌の巧みさとも大いに考えられるのだ。またこの種のイメージ像的判断は上記のHの判断にも左右するのである。
しかしその四年前の事実が逆にそういった現実自体への辟易をも生み、それが今回の政権交代へと導いて行ったという面も否めない。
しかし四年前のような繰り返し繰り返しマスメディアに登場する人物への贔屓筋的な人気獲得が政治には実はマスメディア的な手段(テレビ等の)発生以前の歴史においても選択基準採用性に多大の貢献をしていたということは「それもまた政治の本質である」ことを証明している。そういう政治家の魅力に対する支持心は芸能界同様のポピュリズムと同様なものとして我々の日常に見出すことが可能である。よってO沢ガールズと呼ばれる今回の選挙によるマンモス数的議員たちの将来も、あるいは今回敗れ去った大勢のK泉チルドレンたちと同じ運命を辿る可能性がかなり大である。
勿論そういったカリスマ的な指導力を齎す要素は政治家の資質においても不可欠のものであるが、国民の側が政治家に対して持つべき支持心は決してそれだけではない。ある時にはそういうイメージ像を一切無視して投票するべき候補を見極めねばならないこともある。そういう意味では圧倒的大多数的な議席数という現実にはいささか警戒して然るべきである、という観点も必要ではなかろうか?スケプティカルな視点による選択基準はいつの時代でもマイノリティーであるとも言える。しかしこういった少数の意見がある意味では大多数の議席数を誇る与党的な専制的独裁性への抑制力ともなり得るという判断は決して忌み嫌うべき反体制の物の見方ではないと思われる。
だからこそ四年前の丁度反転的立場となった与党のM主党にしても今後野党から色々と揶揄される立場となったのだから、いつまでも政権交代の蜜月に浸ってもいられないであろう。特にMんなの党とか新党N本などの存在も決して馬鹿には出来ないものとなっていくことだろう。
因みに今回の総選挙でも先ほどの八つの理由が丁度M主党とJ民党の立場が入れ替わることとなってしまったことは言うまでもないだろう。
Monday, September 28, 2009
<心的な決心に至るまでのプロセス>
さて以上のような分析を下に今度はそういう誰それに入れるという行為を決するまでの心的なプロセスにおける分析を施してみようと思う。
決心というもののこの種の多層性を産出するのは選別基準と意志決定システムの多様性に拠るところが大きいが、それでも尚棄権をも含めて最終的には何らかの決断がなされるということは、あらゆる命題的態度の合理化と綜合判断であるが、意外と最終的にその決断と行為を誘引するものとは、慣習性(昔の人ならこう判断した筈であるという)かも知れない。その慣習性とは幾分コード化された部分と、自己経験によるあらゆる出来事に関する認識と個々のセンスデータとの間での合理的判断に他ならない。勿論その際ごく一般的に取り払われるのは誠実性であり、良心的判断(投票率の低下を阻止したいとかの)というものであろう。(第三章<脆弱な「個」と群集心理>を参照されたし。)
ここでちょっと纏めてみよう。まずA、B、C、Dの候補がいて一人記名投票する場合の選択へと至るプロセスの初期段階には次のようなものが考えられる。(但しここではAに投票することを決めた場合とする。それ以外の候補に要れる場合でも同様の事態が想定される。)
初期段階心的カテゴリー
①積極的に投票したいと思われる候補が一人(ないし一人以上)いる。(積極的支持)
②積極的に投票したいと思われる候補は一人もいないが、さりとてその中から誰か一人投票しなければならないとしたら一人選ぶことはかろうじて出来る。(消極的支持)
③積極的に投票したいと思われる候補は一人もいないどころか全員決して投票したくない。
我々はこの三つの心的様相をいずれかに近い状態として意識出来るのではなかろうか?勿論①の場合候補者当人あるいは所属する党かいずれかに共感を抱き選択するのだと思われる。②の場合A、B、C、Dの中の特定の一人は自分が所属する党の人間であり、投票が半ば好むと好まざるとにかかわらず、必須の行為であるか、さもなくば政治的参加に対する義務遂行的意識を有しているかということも含まれると思われる。当然それ以外は特別な義務意識はないものの、と言って政治的決断として不参加、つまり具体的には棄権する必要性も感じず、一応慣習的に選挙があるから、投票しようという判断が大半であろうと思われる。
さて初期段階においてこのような候補者に対する認知を得、それ以降その認知を手掛かりに最終段階において投票日においてなされる決心は次のようなものが考えられよう(全てAならA候補に入れる場合を考えている。また政治不参加を常にモットーとしてもり一切の選挙に行かないことにしているタイプがここでは除外されている)。
結果論的決心行為カテゴリー
①迷わず、ある候補に入れる。(政治参加義務履行型)or(特定候補贔屓型)
②A、B、C、D、全候補をゆっくり比較検討し、ようやく事前に一人選択し、入れる。
(投票行為必須認識選択型)or(政治参加義務遂行型)
③A投票しない。(考えた末に)(政治不参加表明型)or(選挙意義懐疑型)
B投票場に行き敢えて無記名投票(無効票)をする。(政治参加義務遂行型)
さて、①と②は結果論的には同一タイプの行為であり、同一候補を投票すれば同一トークンの行為となる。
①、②、③Bは投票するという意味では同一タイプの行為であり、参加表明型であることにおいては同一であろう。しかし中では③Bが無記名投票であるので、「全候補拒否型」であるか、さもなくば「選挙意義懐疑意志を政治参加により表明型」であると言えよう。③のAのみが政治不参加表明型であるが、そもそも投票に行かないのだから、無視型であるとも言える(表明するなら無効票を提出することがある意味では意志的表明である故)。
しかしここで問題にしているのはあくまで投票へ最初は行こうと思ってそれなりの思考を持った有権者の投票行為の決心のタイプなのであって、一切の政治不参加をモットーとするタイプは繰り返すが除外されている。その意味では結局投票しなかったケースは後で述べる不測の事態でない限り、投票に行くことが可能であったならば、ある種の選挙意義や候補者支持に関する限りプロテストとなり得る。
しかしこのカテゴリーにおいて問題となるのは①、③A、③Bではない。この三つは結果論的には同一タイプの決心行為である。尤もそれはあくまで結果論的な物の見方であり、③Bは②に近い心的様相の末に止むに止まれぬ決心行為であるとも言い得る。それはある意味では心変わりという観点からは③Aについても当て嵌まる。その日(投票日)まで投票に行く積もりでいたのに、急用が出来て投票出来ない場合のみでなく、何らかの理由で突如政治不参加表明する場合(逡巡の末に結局無記名投票を避けたく、それをするくらいなら投票自体を棄権するということが考えられる)もあり得るから。ともあれどの候補に入れるかを初期段階から二転三転させることの末に決心する②を中心とする逡巡タイプの決心行為というものが実は最も大きくクローズアップされねばならない、ということなのである(勿論②のタイプの結果的行為が③A、③Bとなるとことは十分考えられる。それはかろうじてどの候補を入れるかは一応判断出来る前の初期段階カテゴリーの②よりも苦悩型である)。
これらのことを踏まえて新たに①、②、③の初期段階以降の展開において次のようなフェイズが考えられる(A以外の全ての候補に対して当て嵌まる)。
全体論的決心行為カテゴリー
①Ⅰ迷わずある候補に入れる。
Ⅱ上の積もりであったが、不測の事態(自身の病気や仕事の事情、身内の不幸や病気)で、結果論的決心行為カテゴリー③Aを選択する。
Ⅲ逡巡の末に結局結果論的決心行為カテゴリーの③Bを選択する。
②ⅠAかBかCがDか、いずれか一者を選択する。
Ⅱ最初は①だったのに、ある理由(一つかそれ以上の)から「心変わり」して、別候補に入れる(これは段階的な見方によっては①に入ったり、①Ⅲに属したりすることも可能である)。
③Ⅰ最初からそう決め込んで結果論的決心行為カテゴリー③Aを選択する。
Ⅱ最初からそう決め込んで結果論的決心行為カテゴリー③Bを選択する。
Ⅲ最初②の積もりだったが、最終段階において結果論的決心行為カテゴリー③Aを選択する。
Ⅳ最初②の積もりだったが、最終段階において結果論的決心行為カテゴリー③Bを選択する。
ここで少なくとも投票する候補に対する感情が好意あるものであるか、ただ単に政策その他の政治的未来予測による決断であるかの相違を無視すれば、迷わず投票する(ある候補A、B、C、Dいずれかに)という行為は、<①Ⅰ、②Ⅰ、②Ⅱ>のいずれかとなり、投票するが、いずれの候補とも記名しないものは<③Ⅱ、①Ⅲ③Ⅳ>のいずれかとなり、投票しない、つまり投票所そのものに足を運ばないというものは<①Ⅱ、③Ⅰ、③Ⅲ>のいずれかとなり、これらを結果論的カテゴリーとして記すと次のようになる。(つまり結果から理由、原因を遡行する。)
理由及び原因遡行的カテゴリー
A、投票しない
Ⅰ不測の予定変更(上図①Ⅱ)
Ⅱ意志的不遂行(上図③Ⅰ)
Ⅲ心変わり不遂行(③Ⅲ)
B、投票する
Ⅰ無記名(上図①Ⅲ、③Ⅱ、③Ⅳ)
Ⅱ記名(上図①Ⅰ、②Ⅰ、②Ⅱ)
最後にある候補を選択する理由に関して考えてみよう。
それを大まかに分類すると下のようになる。
ある候補に対する選択理由カテゴリー
(1) 候補者の持つ政策や、それを生み出す政治的理念(具体政治判断)
(2) 綜合的に判断出来る政治的能力、政治力(過去事例に基づく綜合的政治判断)
(3) 人柄、人格、職務に対する誠実さ、あるいはそれを確信させる人間的魅力(性格的<非政治的>判断)
(1)をベースに候補を選択する有権者は差し迫った政治的行動に対する要求を優先させ、(つまり現状打破要求、えてして今まで大きな政治的能力を発揮しなかった候補にチャンスを与えよう<勿論その能力と可能性を信じて>ということが多いうように思われる)(3)は現状維持あるいは現状の政治的方向性の肯定の下に投票する理由がより多く存在するということであり、(2)は(1)ほどの変更要求はないが、と言って現状維持要求的であっても、政治的方向性の流れを一時的に変えるために敢えて最新のスタンスではないものを再利用しようという意図が強い場合が多いと思われる。つまり既に経験と実績が認知された候補者に適用されることが多いと思われる)勿論(1)もまた新人や今まで目立たなく未知数の政治家だけではなく、ベテランである場合もあるし、(今までの革新的な政治を続行して欲しいという)(2)もまた新人に適用される場合もあり得る。その場合はあくまで過去事例と言っても極最近のものに限られるが。
決心というもののこの種の多層性を産出するのは選別基準と意志決定システムの多様性に拠るところが大きいが、それでも尚棄権をも含めて最終的には何らかの決断がなされるということは、あらゆる命題的態度の合理化と綜合判断であるが、意外と最終的にその決断と行為を誘引するものとは、慣習性(昔の人ならこう判断した筈であるという)かも知れない。その慣習性とは幾分コード化された部分と、自己経験によるあらゆる出来事に関する認識と個々のセンスデータとの間での合理的判断に他ならない。勿論その際ごく一般的に取り払われるのは誠実性であり、良心的判断(投票率の低下を阻止したいとかの)というものであろう。(第三章<脆弱な「個」と群集心理>を参照されたし。)
ここでちょっと纏めてみよう。まずA、B、C、Dの候補がいて一人記名投票する場合の選択へと至るプロセスの初期段階には次のようなものが考えられる。(但しここではAに投票することを決めた場合とする。それ以外の候補に要れる場合でも同様の事態が想定される。)
初期段階心的カテゴリー
①積極的に投票したいと思われる候補が一人(ないし一人以上)いる。(積極的支持)
②積極的に投票したいと思われる候補は一人もいないが、さりとてその中から誰か一人投票しなければならないとしたら一人選ぶことはかろうじて出来る。(消極的支持)
③積極的に投票したいと思われる候補は一人もいないどころか全員決して投票したくない。
我々はこの三つの心的様相をいずれかに近い状態として意識出来るのではなかろうか?勿論①の場合候補者当人あるいは所属する党かいずれかに共感を抱き選択するのだと思われる。②の場合A、B、C、Dの中の特定の一人は自分が所属する党の人間であり、投票が半ば好むと好まざるとにかかわらず、必須の行為であるか、さもなくば政治的参加に対する義務遂行的意識を有しているかということも含まれると思われる。当然それ以外は特別な義務意識はないものの、と言って政治的決断として不参加、つまり具体的には棄権する必要性も感じず、一応慣習的に選挙があるから、投票しようという判断が大半であろうと思われる。
さて初期段階においてこのような候補者に対する認知を得、それ以降その認知を手掛かりに最終段階において投票日においてなされる決心は次のようなものが考えられよう(全てAならA候補に入れる場合を考えている。また政治不参加を常にモットーとしてもり一切の選挙に行かないことにしているタイプがここでは除外されている)。
結果論的決心行為カテゴリー
①迷わず、ある候補に入れる。(政治参加義務履行型)or(特定候補贔屓型)
②A、B、C、D、全候補をゆっくり比較検討し、ようやく事前に一人選択し、入れる。
(投票行為必須認識選択型)or(政治参加義務遂行型)
③A投票しない。(考えた末に)(政治不参加表明型)or(選挙意義懐疑型)
B投票場に行き敢えて無記名投票(無効票)をする。(政治参加義務遂行型)
さて、①と②は結果論的には同一タイプの行為であり、同一候補を投票すれば同一トークンの行為となる。
①、②、③Bは投票するという意味では同一タイプの行為であり、参加表明型であることにおいては同一であろう。しかし中では③Bが無記名投票であるので、「全候補拒否型」であるか、さもなくば「選挙意義懐疑意志を政治参加により表明型」であると言えよう。③のAのみが政治不参加表明型であるが、そもそも投票に行かないのだから、無視型であるとも言える(表明するなら無効票を提出することがある意味では意志的表明である故)。
しかしここで問題にしているのはあくまで投票へ最初は行こうと思ってそれなりの思考を持った有権者の投票行為の決心のタイプなのであって、一切の政治不参加をモットーとするタイプは繰り返すが除外されている。その意味では結局投票しなかったケースは後で述べる不測の事態でない限り、投票に行くことが可能であったならば、ある種の選挙意義や候補者支持に関する限りプロテストとなり得る。
しかしこのカテゴリーにおいて問題となるのは①、③A、③Bではない。この三つは結果論的には同一タイプの決心行為である。尤もそれはあくまで結果論的な物の見方であり、③Bは②に近い心的様相の末に止むに止まれぬ決心行為であるとも言い得る。それはある意味では心変わりという観点からは③Aについても当て嵌まる。その日(投票日)まで投票に行く積もりでいたのに、急用が出来て投票出来ない場合のみでなく、何らかの理由で突如政治不参加表明する場合(逡巡の末に結局無記名投票を避けたく、それをするくらいなら投票自体を棄権するということが考えられる)もあり得るから。ともあれどの候補に入れるかを初期段階から二転三転させることの末に決心する②を中心とする逡巡タイプの決心行為というものが実は最も大きくクローズアップされねばならない、ということなのである(勿論②のタイプの結果的行為が③A、③Bとなるとことは十分考えられる。それはかろうじてどの候補を入れるかは一応判断出来る前の初期段階カテゴリーの②よりも苦悩型である)。
これらのことを踏まえて新たに①、②、③の初期段階以降の展開において次のようなフェイズが考えられる(A以外の全ての候補に対して当て嵌まる)。
全体論的決心行為カテゴリー
①Ⅰ迷わずある候補に入れる。
Ⅱ上の積もりであったが、不測の事態(自身の病気や仕事の事情、身内の不幸や病気)で、結果論的決心行為カテゴリー③Aを選択する。
Ⅲ逡巡の末に結局結果論的決心行為カテゴリーの③Bを選択する。
②ⅠAかBかCがDか、いずれか一者を選択する。
Ⅱ最初は①だったのに、ある理由(一つかそれ以上の)から「心変わり」して、別候補に入れる(これは段階的な見方によっては①に入ったり、①Ⅲに属したりすることも可能である)。
③Ⅰ最初からそう決め込んで結果論的決心行為カテゴリー③Aを選択する。
Ⅱ最初からそう決め込んで結果論的決心行為カテゴリー③Bを選択する。
Ⅲ最初②の積もりだったが、最終段階において結果論的決心行為カテゴリー③Aを選択する。
Ⅳ最初②の積もりだったが、最終段階において結果論的決心行為カテゴリー③Bを選択する。
ここで少なくとも投票する候補に対する感情が好意あるものであるか、ただ単に政策その他の政治的未来予測による決断であるかの相違を無視すれば、迷わず投票する(ある候補A、B、C、Dいずれかに)という行為は、<①Ⅰ、②Ⅰ、②Ⅱ>のいずれかとなり、投票するが、いずれの候補とも記名しないものは<③Ⅱ、①Ⅲ③Ⅳ>のいずれかとなり、投票しない、つまり投票所そのものに足を運ばないというものは<①Ⅱ、③Ⅰ、③Ⅲ>のいずれかとなり、これらを結果論的カテゴリーとして記すと次のようになる。(つまり結果から理由、原因を遡行する。)
理由及び原因遡行的カテゴリー
A、投票しない
Ⅰ不測の予定変更(上図①Ⅱ)
Ⅱ意志的不遂行(上図③Ⅰ)
Ⅲ心変わり不遂行(③Ⅲ)
B、投票する
Ⅰ無記名(上図①Ⅲ、③Ⅱ、③Ⅳ)
Ⅱ記名(上図①Ⅰ、②Ⅰ、②Ⅱ)
最後にある候補を選択する理由に関して考えてみよう。
それを大まかに分類すると下のようになる。
ある候補に対する選択理由カテゴリー
(1) 候補者の持つ政策や、それを生み出す政治的理念(具体政治判断)
(2) 綜合的に判断出来る政治的能力、政治力(過去事例に基づく綜合的政治判断)
(3) 人柄、人格、職務に対する誠実さ、あるいはそれを確信させる人間的魅力(性格的<非政治的>判断)
(1)をベースに候補を選択する有権者は差し迫った政治的行動に対する要求を優先させ、(つまり現状打破要求、えてして今まで大きな政治的能力を発揮しなかった候補にチャンスを与えよう<勿論その能力と可能性を信じて>ということが多いうように思われる)(3)は現状維持あるいは現状の政治的方向性の肯定の下に投票する理由がより多く存在するということであり、(2)は(1)ほどの変更要求はないが、と言って現状維持要求的であっても、政治的方向性の流れを一時的に変えるために敢えて最新のスタンスではないものを再利用しようという意図が強い場合が多いと思われる。つまり既に経験と実績が認知された候補者に適用されることが多いと思われる)勿論(1)もまた新人や今まで目立たなく未知数の政治家だけではなく、ベテランである場合もあるし、(今までの革新的な政治を続行して欲しいという)(2)もまた新人に適用される場合もあり得る。その場合はあくまで過去事例と言っても極最近のものに限られるが。
Sunday, September 27, 2009
決心の構造の多層性(ある選挙に立ち会って)<選択の行為性>②
だから次のように考えられる。オースティンは判定宣告型、権限行使型、行為拘束型、態度表明型、言明解説型という風に分類して行為遂行発言を分析した。そして彼にとって投票するという行為は権限行使型ということとなっているが、実際私の考えでは、権限行使型は先の例ではあくまで選挙意義に懐疑的であり棄権するか、さもなくば選挙の意義とその選挙で立候補する贔屓の候補者が絶対的に支持したいという考えを表明する場合のみであり、ただ単に贔屓心からある候補に迷いなしの投票する場合でさえ、そういう場合えてしてイメージの方が大切であり、個々の具体的な政策ではないから、つまりどのような政策であれ、この候補者に任せておけば間違いないであろうという盲目的な信頼によるものであれば、それは躊躇した末にある候補者に要れる場合と同様、それは態度表明型であると言えよう。つまり投票は私の考えではかなりそれ自体に対して肯定的であるか否定的であるかの二極以外では慣行儀礼追従型である、つまり慣習踏襲型であるから(つまり深く意義論的に判断しているのではなく、選挙があるから投票しようという自動的な行為選択判断であるから)あくまで態度表明型であると言えよう。つまりそれは主体的であるよりは追従型であるから態度表明型というオースティン流のカテゴリーに位置付けられるのである。
しかも現代はテレビを中心とする映像メディアの時代である。その候補者の日頃の立ち居振る舞いとか表情とか全ての身体全体から発するオーラが一瞬にして伝達される時代である。メディアの露出の多い政治家はあくまでパフォーマンスが優れた政治家であり、タレント性も要求される。そこで一瞬にしてその政治家の身体的なオーラの感じられる政治家が必然的にマスメディアの登場回数も多くなり、そういう魅力ある候補の政策のみがより強調されてゆき、大衆的な認知度が倍増し、そういう候補者に対して、ほぼ自動的に投票するように本質的には政治的無関心であるのに、祭り感覚で今回は投票行動の加担しようという意識が生じ、そういう候補がえてして大勝を納めることとなる。
哲学者の信原幸弘は自著「心の現代哲学」において「意識的に考えて行動することは、意識的な言語操作にもとづいて行動することである。それを、意識的な言語操作の背後に無意識的な命題的態度の活用を想定し、そのような命題的態度のゆえに行動がなされると考えることは、あまり適切ではないのである。」と述べている。彼の言う通り命題的態度と行動との連関において命題的態度は確かに明白な意識的な産物と考えて初めて行動を誘引すると考えることは出来る。しかしその意識的な命題的態度を構成する意識自体は極めて多くの構成要因を持っていると考えられる。その中には勿論理性論的な思惟やその産物、あるいは欲求の形を取る意志とか色々のものが考えられるが、その中には無意識の内に欲求が充足されない形で沈殿したものも多数含まれるであろうと思われる。その意味で信原は決して無意識の作用自体を否定したわけではない、ただ無意識が直に行動を誘引するという事態を否定しただけである。その意味では選挙において専門家でない(政治的にも経済社会の現実、経済政治戦略的な意味で)一般民間人が投票する際の候補者選びのバロメーターはメディア的な意味での露出度というものが大きな比重を占め、そのメディア的な知識とマスメディア受けする好感度が投票行動に遠因として無意識の内に醸成されたその候補者に対する知識を高め、他の候補者との距離を作り、それを投票すべき候補選びの条件として意識的に自覚させるのだとすれば、投票行動を誘引する直接的な候補者に対する認知度自体が、その候補者を他の候補者に対してより多い回数でメディアに登場させるメディア露出に対する認知自体によって無意識の内に知識や好感度を増さしめる事実と連関していることは大いに考えられるところである。実際知識とか決心の際の意識的な判断においては蓄積された潜在的な記憶に、記憶事項を整理する個人毎の経験と相まって理性論的な判断においてさえ大きくマスメディアから影響を受けるという現実がマスメディアの浸透力の大きい現代社会では拭い難く顕在化しているのである。
しかし時としてそういう候補のイメージ戦略に理性論的に批判を加え敢えてそういう候補は避けるという行動を採る者もいる。つまり全体的なバランスを取り、どうせ放っておいたら、ある候補が絶対的に勝利を収めるであろうという推測の下で敢えてそれ以外批判的勢力の方に加担して投票しようという選択を取る場合である。これは独裁的、多数派主導型政治への批判と懸念から生じた選択であり、かなり主体的な選択でもある。この決断は選挙以外でも多くの日常的な場面で見受けられる。クイズの回答、他者の態度の裏にある真意といったものが通り一遍の常識的判断を敢えて回避させるやり方である。しかしこれも懐疑主義的傾向の強いタイプと、そうではないタイプとでは圧倒的にスケプティカルなタイプに多く見られる判断であるように思われる。
故に選挙意義を一応認め更に棄権しない者の中でとりわけある候補や候補党が圧倒的な人気であることが了解されている場合、それでもその人気党、人気候補者以外のいかなる反対勢力にも投票出来ないと明確に言い切れる場合にその人気ある候補、党に入れる場合と、そういう現実をある程度推測出来、敢えて絶対多数を回避させるために人気候補、党以外である程度容認出来る候補、党に入れるというような場合のみが理性論的判断による投票行動であると言えよう。勿論ここには棄権者は除外することを前提した判断である。それ以外の多くは付和雷同的な意識、他の多くがそうするから、自分もそうするという行為選択基準によって投票する場合であろう。しかしこの主体的であるか付和雷同であるかの峻別基準というものは甚だ難しいと言わねばならない。するとここでまた問題となるのは今回の選挙が実際理性論的にその実施意義自体を問うことが必須であるかどうかという判断によってその選挙に対する姿勢も変わってくるということである。そして付和雷同してただ潜在的なマスメディアイメージの主張する候補者像を信頼し、何の疑いもなくその候補に投票することが支障なしと判断するか、そうではなくあくまでマスメディアが必要以上にイメージ主張先行型なメッセージにより我々を誘導するような脅威を敢えて自覚的に認識し、それに付き従わないように心掛けるような理性論を先行させるかという二者択一を選挙の都度我々は迫られているという風にも解釈出来るのである。 前者の判断はマスメディアの表出するイメージ像や露出頻度に対してマスメディアの視聴率、購買促進術としての営利追求型な姿勢自体を批判してそれに抗うこと自体の意義を必要以上に感じない、つまりそれを批判するよりも受け入れることの方がより自然に感じられる、つまりそれくらい今の政治的な体勢と大勢を肯定的に捉えていて構わないと判断する、あるいは何よりそういった現代社会の有り様自体を肯定するマスメディアに対して一定の信頼があることであり、後者は、そのマスメディアを利用し、マスメディアが彼らに利用されることを承知で、その人気政治家たちを利用することを厭わない姿勢を批判主義的に今まさに問題意識として浮上させるべきであり、マスメディアの作り上げる実像に対するただマスメディアの側からの事情による一面的な報道姿勢にしか過ぎないのだ、と判断し、そういう候補に対しては敢えて投票しないという抵抗姿勢を全うするかという二者択一である。そういった二者択一以外にもその中間や最初は前者であったが、後で後者に移行したり、逆に最初は後者であったが、やはり前者の人気性へと加担してもよいという判断があったり、実はこの二者択一性は個人の決心の構造においては甚だ錯綜していることの方が多いということが極自然であろう。
しかも現代はテレビを中心とする映像メディアの時代である。その候補者の日頃の立ち居振る舞いとか表情とか全ての身体全体から発するオーラが一瞬にして伝達される時代である。メディアの露出の多い政治家はあくまでパフォーマンスが優れた政治家であり、タレント性も要求される。そこで一瞬にしてその政治家の身体的なオーラの感じられる政治家が必然的にマスメディアの登場回数も多くなり、そういう魅力ある候補の政策のみがより強調されてゆき、大衆的な認知度が倍増し、そういう候補者に対して、ほぼ自動的に投票するように本質的には政治的無関心であるのに、祭り感覚で今回は投票行動の加担しようという意識が生じ、そういう候補がえてして大勝を納めることとなる。
哲学者の信原幸弘は自著「心の現代哲学」において「意識的に考えて行動することは、意識的な言語操作にもとづいて行動することである。それを、意識的な言語操作の背後に無意識的な命題的態度の活用を想定し、そのような命題的態度のゆえに行動がなされると考えることは、あまり適切ではないのである。」と述べている。彼の言う通り命題的態度と行動との連関において命題的態度は確かに明白な意識的な産物と考えて初めて行動を誘引すると考えることは出来る。しかしその意識的な命題的態度を構成する意識自体は極めて多くの構成要因を持っていると考えられる。その中には勿論理性論的な思惟やその産物、あるいは欲求の形を取る意志とか色々のものが考えられるが、その中には無意識の内に欲求が充足されない形で沈殿したものも多数含まれるであろうと思われる。その意味で信原は決して無意識の作用自体を否定したわけではない、ただ無意識が直に行動を誘引するという事態を否定しただけである。その意味では選挙において専門家でない(政治的にも経済社会の現実、経済政治戦略的な意味で)一般民間人が投票する際の候補者選びのバロメーターはメディア的な意味での露出度というものが大きな比重を占め、そのメディア的な知識とマスメディア受けする好感度が投票行動に遠因として無意識の内に醸成されたその候補者に対する知識を高め、他の候補者との距離を作り、それを投票すべき候補選びの条件として意識的に自覚させるのだとすれば、投票行動を誘引する直接的な候補者に対する認知度自体が、その候補者を他の候補者に対してより多い回数でメディアに登場させるメディア露出に対する認知自体によって無意識の内に知識や好感度を増さしめる事実と連関していることは大いに考えられるところである。実際知識とか決心の際の意識的な判断においては蓄積された潜在的な記憶に、記憶事項を整理する個人毎の経験と相まって理性論的な判断においてさえ大きくマスメディアから影響を受けるという現実がマスメディアの浸透力の大きい現代社会では拭い難く顕在化しているのである。
しかし時としてそういう候補のイメージ戦略に理性論的に批判を加え敢えてそういう候補は避けるという行動を採る者もいる。つまり全体的なバランスを取り、どうせ放っておいたら、ある候補が絶対的に勝利を収めるであろうという推測の下で敢えてそれ以外批判的勢力の方に加担して投票しようという選択を取る場合である。これは独裁的、多数派主導型政治への批判と懸念から生じた選択であり、かなり主体的な選択でもある。この決断は選挙以外でも多くの日常的な場面で見受けられる。クイズの回答、他者の態度の裏にある真意といったものが通り一遍の常識的判断を敢えて回避させるやり方である。しかしこれも懐疑主義的傾向の強いタイプと、そうではないタイプとでは圧倒的にスケプティカルなタイプに多く見られる判断であるように思われる。
故に選挙意義を一応認め更に棄権しない者の中でとりわけある候補や候補党が圧倒的な人気であることが了解されている場合、それでもその人気党、人気候補者以外のいかなる反対勢力にも投票出来ないと明確に言い切れる場合にその人気ある候補、党に入れる場合と、そういう現実をある程度推測出来、敢えて絶対多数を回避させるために人気候補、党以外である程度容認出来る候補、党に入れるというような場合のみが理性論的判断による投票行動であると言えよう。勿論ここには棄権者は除外することを前提した判断である。それ以外の多くは付和雷同的な意識、他の多くがそうするから、自分もそうするという行為選択基準によって投票する場合であろう。しかしこの主体的であるか付和雷同であるかの峻別基準というものは甚だ難しいと言わねばならない。するとここでまた問題となるのは今回の選挙が実際理性論的にその実施意義自体を問うことが必須であるかどうかという判断によってその選挙に対する姿勢も変わってくるということである。そして付和雷同してただ潜在的なマスメディアイメージの主張する候補者像を信頼し、何の疑いもなくその候補に投票することが支障なしと判断するか、そうではなくあくまでマスメディアが必要以上にイメージ主張先行型なメッセージにより我々を誘導するような脅威を敢えて自覚的に認識し、それに付き従わないように心掛けるような理性論を先行させるかという二者択一を選挙の都度我々は迫られているという風にも解釈出来るのである。 前者の判断はマスメディアの表出するイメージ像や露出頻度に対してマスメディアの視聴率、購買促進術としての営利追求型な姿勢自体を批判してそれに抗うこと自体の意義を必要以上に感じない、つまりそれを批判するよりも受け入れることの方がより自然に感じられる、つまりそれくらい今の政治的な体勢と大勢を肯定的に捉えていて構わないと判断する、あるいは何よりそういった現代社会の有り様自体を肯定するマスメディアに対して一定の信頼があることであり、後者は、そのマスメディアを利用し、マスメディアが彼らに利用されることを承知で、その人気政治家たちを利用することを厭わない姿勢を批判主義的に今まさに問題意識として浮上させるべきであり、マスメディアの作り上げる実像に対するただマスメディアの側からの事情による一面的な報道姿勢にしか過ぎないのだ、と判断し、そういう候補に対しては敢えて投票しないという抵抗姿勢を全うするかという二者択一である。そういった二者択一以外にもその中間や最初は前者であったが、後で後者に移行したり、逆に最初は後者であったが、やはり前者の人気性へと加担してもよいという判断があったり、実はこの二者択一性は個人の決心の構造においては甚だ錯綜していることの方が多いということが極自然であろう。
Wednesday, September 23, 2009
決心の構造の多層性(ある選挙に立ち会って)
<選挙の行為性>
一つの決心がなされる時、そこに至るプロセスはさまざまであり、まさに現状において定言的に心的に即決されて、仮にA、B、C、Dという選択肢の中からAを選択した場合と、それとは逆に即決が出来ずに躊躇と逡巡をさんざん持った挙句に選言的にAを選択する場合、後者においては仮にAが結論的に選択されることが自明性を有していながら、同時にBならBに(CでもDでもよい)もそういった自明性があるということを見出し得る場合、必然的に熟慮に熟慮を重ねて二者択一的に決定する場合などは本来前者と全く同一の選択をしたにもかかわらずそのモティヴェーションには随分と開きがある、と考えて順当である。しかもそればかりではなく、例えば最初は迷わずにAならAを定言的に選択し得ると、そう思ったのにもかかわらず、次第にBという選択肢も心的に必然的でもある、という判断が浮上してくることも多々日常的には起こり得る。そういったさまざまなパターンの心的な並存は一個人の中であっても、何ら不思議なことではない。しかも短期間に選択しなければならない状況においては無意識の内にある選択を即決し得るような個人においてさえ、ある一定の期間、時間的な推移を付与される場合には、その決定に至るプロセスは大きく初期段階とは変更され得る。そういう意味においては選択というものの本質とは仮言的である、とも言える。選言的に決定される場合とみにそうである。
可能性にはカテゴリーはない。あくまでケース・バイ・ケースで恣意的な選言性しか事後的に確認し得ない。要するに仮言的であるのである。このように決心の種類、その選択肢の数、その個々の性質、その決心を強いる状況性によって決心はケース・バイ・ケースでその構造を独自の多層性を生じさせる。しかも常にその選択そのものの性格は決心全体が依拠する意味においても唯一的、個別的性格を持ち、決して一般論的に敷衍し得るほど単純ではない。唯一的性格であるが故に我々はそれをカテゴライズすることが出来ないということである。だが性格がカテゴライズ出来ないからと言って、性格分析の内包的な方法までもカテゴライズし得ないとも言い切れない。方法的には現実がカテゴライズ出来ない故にこそ尚更カテゴリー認識を活用することにはそれなりの意味がある。
こういったことを考える上で恰好の社会的出来事とは選挙である。ある候補をどうしても一名だけ選ばなければならないような状況において、我々は棄権をも含めてどのような選択をするのであろうか?ある種迷うことなく一名をリスト・アップ出来る積極的な場合と致し方なくある一名をリスト・アップするような消極的な場合も含めれば、かなりの積極性と判断的な事情には多層性が存在し得るであろう。ア・プリオリに定言的に候補者の名前を言える場合と、そうでない場合とでは必然的に天と地ほどの開きがある、と言えよう。故にその両極の間に位置するとも考えられる中間的な様相の事情の多様性が、実はその選挙自体が内包する真理性に多大の影響を付与しよう。そしてその中間的な多様性は、中間領域の偏在性と唯一的な性格故に固有の選挙を巡る状況と唯一的な戦略とを候補者にも投票者にも付与するであろう。
しかし最も重要なこととは、選挙の場合、まず選挙に行く以前に選挙が今度あるようだが、それがいつであり、行くか行かないかを考えるという内的な行為があるかないか、という次元での問題がア・プリオリに存在するのだ。そして選挙があるということを知りつつも、行かないというのならそれはノンポリ的な考え方であるが、全く選挙というものが今度あるということに関して聞いていても、右の耳から左の耳でと筒抜けになってしまうか、もしくは選挙なんて今度あるのか知らなかったというくらいの無関心、情報を自然に遮断された状態の人の関しては、本論においては除外されるということである。ノンポリ的な考え方は明らかに主体的である。しかしそもそもそういうものがあるということに気がつくさえしないということは主体的とは言えない。そこで本論ではノンポリ以上の存在を的に絞って考えてみよう。
ノンポリであろうが、関心があろうが、今回の選挙自体に全く賛意がない場合、消極的な判断であるところの選択としては棄権というものがあり得るが、それはノンポリにはあり得ない判断である。なぜなら彼らは主体的、意思的に敢えて一切選挙に参加しないのであるから、消極的な賛意としての棄権とは異なる。それは今回だけは止めておこうということである。しかしここに仮に今一切の選挙には参加しないぞ、という意志を持つ人間がいるなら、そういった人間は選挙自体の有無については重々承知しているわけだから、積極的な非参加姿勢表明とも言い得る。所謂ノンポリにはその手のタイプが多く見られるのではないか?だが取り敢えず我々は参加した人々、あるいは棄権したが実際はそれほど非参加の意志が鮮明ではなく、本来なら参加したかったのだが、あるいは参加すべきであると思っていたが棄権した人々のみを含めてそれ以外の参加した人々の内的な意思の多層性について考えてみよう。
しかし積極的、消極的という観点はその選挙の意義、内容、あるいは立候補者とかのメンバーとかの作り出す状況性とも大いに関係ある。例えば特に有力な立候補者の中の一方が必ず今回は勝利するであろうと思われる場合の投票意志は全くどちらかが勝利収めるかが皆目検討がつかない場合とは異なった投票意志を生じさせる。もし大勝利が決定的であると察せられる場合自己の一票がそれほどの大きな意義がないのではないか、と感じられる場合、他に色々の雑事のある場合今回は行かないようにしようとかの棄権意志が生じやすいであろう。それは参加を機軸にすれば、明らかに消極的な参加意志表明である。だがそれでも国民の、市民の義務履行意識がそれよりは少し高ければ、どちらの候補ともそれほど鮮明に賛意を表明出来はしないものの、どちらかというとこちらの候補の方がよりよい(つまり当選した暁にはよい政治的な結果を生じさせるのではないか、という臆測の下に)という判断によってどちらかの候補に取り敢えず一票を投じる、しかも本来は行かない場合も多いのだが、今回は参加することで何らかの意志表示をしよう、というのも日頃マスメディアが作り上げる世論という幻想に飽き飽きしているとかの場合、民意はそうではないぞ、国会の決議も必ずしも民意を反映してはいないぞ、という場合などは、仮に鮮明に支持すべき候補のいない場合でさえ、積極的に賛意を表明する意味で恣意的に誰かを選び投票する場合もある。得てしてそういう場合はある政策を巡って対立する考えが国会やマスメディアの話題において顕示されている場合が多いであろうから、そういう二者択一の選択の場合あくまで賛意という表明性においては積極的であるが、選択候補に関する支持性に関してはやや消極的である。なぜならマスメディアの作り出す民意の幻想や国会の決議自体への批判票であるから、一票を投じるという行為性により重きがかかり、その一票を入れる候補への支持がそれほど強くはない、ということも十分考えられるからである。だから二者択一的に選択される場合、誰か鮮明に支持すべき候補者がいる場合と比べると明らかに義務遂行的であることは間違いない。鮮明に支持すべき候補に一票を入れる場合は義務意識からではなく、もっと主体的な参加意志表明型であるからである。しかし二極分離的に主要候補者同士の一騎打ちである場合以外の、例えば数名の候補者が団栗の背比べである場合は、その数名の中からなら、この候補、あの候補が一番まともであると思われる場合、その候補を義務履行的に入れるということがあり得る。この選択は二極分離である場合同様支持性に関しては消極的であると言えよう。ここでちょっと纏めておこう。下図のようになろう。
1、政治参加意志の積極的表明型
①積極的支持候補者へ投票する
②積極的支持候補者不在であるにもかかわらず、誰かを熟慮の末に投票する
2、政治的参加意志はあるものの、今回は不参加を決め込む消極的表明型
①特定の候補がおらず今回は見送り棄権する
②選挙自体の意義に疑問を持ち今回は見送り棄権する
③どちらか一方の候補者が勝利することが鮮明に了解し得るので今回は敢えて投票するべくもないと思い棄権する
ここで積極性というものについて考えると、まず選挙自体の意義の肯定という意味においては、1の①、②、2の①、②が同等のポテンシャルを持っていると考えられる。しかしやや2の①が積極性において劣るというくらいであろうか。それに対して2の③は明らかに消極的な自己有権に対する姿勢である。今度は選挙自体ではなく、候補者に対する当選して欲しいという観点から見た積極性(支持積極性)においては、1の①、2の①が積極的な支持、不支持の意志表明を持っているのに対して、それ以外は2の②が全く異なった観点であるためにプロテスト的な姿勢であることを除き更に、2の③が最も消極的な支持性の表明であることを除けば皆同等の消極性に裏打ちされている。ただ1の②は消極性の中ではやや積極性が強く、積極性の観点からは義務履行的側面が強く、積極的であるよりは致し方なく、止むを得ずという側面が強いものの、選挙参加姿勢に関しては一番強いという風にも考えられる。
この中でも実は2の②は一番選挙の実施自体の意義について考慮を持っている。というのも選挙を意味あるものであるか、そうでないかという観点において言及した行動を採用しているのがこれだけだからである。その意味でこの選択は積極的な選挙実施に対する意思表示であるとも言えるのである。これはだから理性論的選択であり、そうではないこれ以外の選択は積極的に誰か特定の候補に投票する場合(その候補の政策面において共鳴を持ち選挙の実施自体にも共鳴しつつ)だけを除き、たとえ贔屓の候補に投票してさえその投票行動を支える心的な様相においてはただ選挙があるから自動的に投票所へと赴くという無意識に因果的な行動でしかないからである。そういう無意識の内の反射的行動における選択は理性論的な選択とは言えない。それらはあくまで常識追従型の選択であり、社会通念踏襲型の選択である。だからと言ってそれらをまるっきり条件反射的な行動だけである、とも言い切れない要素は残る。それが慣習的コードでもある義務遂行的行為である。義務は納税とか所謂法的な義務だけをここでは指すわけではない。あくまで社会通念的な意味での社会人行動の規範に則った行為を全て指すのである。こういった行為は慣習的な行為は皆規則遵守、慣習踏襲の逸脱行動忌避型行為選択とも言える。
しかし一旦選挙が行われ、今度はその有権者の投票結果が判明するに至り、その結果が自己の入れた候補が当選しない場合はともかく、自己の入れた候補が当選する場合、その候補を迷わずに選択した贔屓筋ならいざ知らず、苦渋の決断や熟慮に熟慮を重ねて要れた場合(そういうケースではえてしてそれ以外の選択肢が見つからない場合や渋々要れるということが多いので)、贔屓筋以上にその後の政治的展開において期待以上の活躍を見込めない場合には失望感がより大きいと思われる。だから逆に入れた相手の属す党が予想に反して当選した場合(あまり当選するということを期待して入れない、つまり批評票的入れ方)最初からの贔屓筋よりも苦渋の決断や熟慮後の決断で入れた場合の方が後悔の念は少ないということはあり得る。何故ならただ単なる贔屓筋で入れる場合には明らかに「活躍して欲しい」という理性的判断であるよりは、レジャー的意識が強いし、また批評票的な場合それはあくまで勝つ側を想定してそうではない側に入れるわけだから、それが予想に反して当選してしまったということから逆に意表をつかれてしまうから、嬉しいとも後悔があるとも言えない感情に襲われるだろうし、逆に真摯に考え抜いてその入れた候補が当選した場合、熟慮して入れた甲斐があったと思うからだ。しかし迷わずに入れた場合自己の選択基準とは異なった受け取られ方において予想以上の議席を贔屓党自体が獲得すると、その勝利に対する奢りを戒める意味での反対票の少なさからある種の懸念を持つに至る場合もあろう。しかしこういった場合でもその後の活躍次第では苦渋の決断や熟慮後に投票した場合よりも明らかに失望感は少ないであろう。しかし熟慮して入れた場合(限りなく反対勢力に対しても同様の期待感を持っている場合)余程の活躍がないと失望感はより大きくなることもまた逆に自然である。あれだけ悩んで入れて損したと思うわけである。これは反動的な期待感に対する失望感と言えよう。そういう意味では迷いを吹っ切る場合に我々は迷いを消すに足る強い期待感と肯定意識を我々自身の内部に生むのである。 さてこのように考えてみると、躊躇いを持って投票した場合には明らかに期待感は倍増されるという現実もあり得る。またこうも言える。期待感はなくても贔屓である候補が自己によって投票された者だけである場合は、さほどの活躍が当選後に見られなくても、盲目的である要素も強い贔屓心から、批判精神は最初からないのだから、そういう場合は格別の失敗をしない限り贔屓心は変更されないものである。躊躇いなく入れる場合でも政策面での共鳴によって入れた場合は、人物評価とか好人物であるという判断から入れた場合よりもより政策実効性において期待にはずれると失望感は倍増される。それは好人物であるとか(メディアの与えるイメージの問題として)のような軽い気持ちとは訳が違うと言うことは言えるし、具体的に掲げる公約として政策面からの活躍に対する期待感があるのであるから当然である。だから人物評価とか好人物性によって選択した迷いなしの投票者よりも理性論的な政策面、公約規定論理性によって選択する迷いなしの投票者の方がより大きな失望感を期待が裏切られると味わうこととなる。支持する意識が萎えてくるのである。急速に萎むのである。
<選挙の行為性>
一つの決心がなされる時、そこに至るプロセスはさまざまであり、まさに現状において定言的に心的に即決されて、仮にA、B、C、Dという選択肢の中からAを選択した場合と、それとは逆に即決が出来ずに躊躇と逡巡をさんざん持った挙句に選言的にAを選択する場合、後者においては仮にAが結論的に選択されることが自明性を有していながら、同時にBならBに(CでもDでもよい)もそういった自明性があるということを見出し得る場合、必然的に熟慮に熟慮を重ねて二者択一的に決定する場合などは本来前者と全く同一の選択をしたにもかかわらずそのモティヴェーションには随分と開きがある、と考えて順当である。しかもそればかりではなく、例えば最初は迷わずにAならAを定言的に選択し得ると、そう思ったのにもかかわらず、次第にBという選択肢も心的に必然的でもある、という判断が浮上してくることも多々日常的には起こり得る。そういったさまざまなパターンの心的な並存は一個人の中であっても、何ら不思議なことではない。しかも短期間に選択しなければならない状況においては無意識の内にある選択を即決し得るような個人においてさえ、ある一定の期間、時間的な推移を付与される場合には、その決定に至るプロセスは大きく初期段階とは変更され得る。そういう意味においては選択というものの本質とは仮言的である、とも言える。選言的に決定される場合とみにそうである。
可能性にはカテゴリーはない。あくまでケース・バイ・ケースで恣意的な選言性しか事後的に確認し得ない。要するに仮言的であるのである。このように決心の種類、その選択肢の数、その個々の性質、その決心を強いる状況性によって決心はケース・バイ・ケースでその構造を独自の多層性を生じさせる。しかも常にその選択そのものの性格は決心全体が依拠する意味においても唯一的、個別的性格を持ち、決して一般論的に敷衍し得るほど単純ではない。唯一的性格であるが故に我々はそれをカテゴライズすることが出来ないということである。だが性格がカテゴライズ出来ないからと言って、性格分析の内包的な方法までもカテゴライズし得ないとも言い切れない。方法的には現実がカテゴライズ出来ない故にこそ尚更カテゴリー認識を活用することにはそれなりの意味がある。
こういったことを考える上で恰好の社会的出来事とは選挙である。ある候補をどうしても一名だけ選ばなければならないような状況において、我々は棄権をも含めてどのような選択をするのであろうか?ある種迷うことなく一名をリスト・アップ出来る積極的な場合と致し方なくある一名をリスト・アップするような消極的な場合も含めれば、かなりの積極性と判断的な事情には多層性が存在し得るであろう。ア・プリオリに定言的に候補者の名前を言える場合と、そうでない場合とでは必然的に天と地ほどの開きがある、と言えよう。故にその両極の間に位置するとも考えられる中間的な様相の事情の多様性が、実はその選挙自体が内包する真理性に多大の影響を付与しよう。そしてその中間的な多様性は、中間領域の偏在性と唯一的な性格故に固有の選挙を巡る状況と唯一的な戦略とを候補者にも投票者にも付与するであろう。
しかし最も重要なこととは、選挙の場合、まず選挙に行く以前に選挙が今度あるようだが、それがいつであり、行くか行かないかを考えるという内的な行為があるかないか、という次元での問題がア・プリオリに存在するのだ。そして選挙があるということを知りつつも、行かないというのならそれはノンポリ的な考え方であるが、全く選挙というものが今度あるということに関して聞いていても、右の耳から左の耳でと筒抜けになってしまうか、もしくは選挙なんて今度あるのか知らなかったというくらいの無関心、情報を自然に遮断された状態の人の関しては、本論においては除外されるということである。ノンポリ的な考え方は明らかに主体的である。しかしそもそもそういうものがあるということに気がつくさえしないということは主体的とは言えない。そこで本論ではノンポリ以上の存在を的に絞って考えてみよう。
ノンポリであろうが、関心があろうが、今回の選挙自体に全く賛意がない場合、消極的な判断であるところの選択としては棄権というものがあり得るが、それはノンポリにはあり得ない判断である。なぜなら彼らは主体的、意思的に敢えて一切選挙に参加しないのであるから、消極的な賛意としての棄権とは異なる。それは今回だけは止めておこうということである。しかしここに仮に今一切の選挙には参加しないぞ、という意志を持つ人間がいるなら、そういった人間は選挙自体の有無については重々承知しているわけだから、積極的な非参加姿勢表明とも言い得る。所謂ノンポリにはその手のタイプが多く見られるのではないか?だが取り敢えず我々は参加した人々、あるいは棄権したが実際はそれほど非参加の意志が鮮明ではなく、本来なら参加したかったのだが、あるいは参加すべきであると思っていたが棄権した人々のみを含めてそれ以外の参加した人々の内的な意思の多層性について考えてみよう。
しかし積極的、消極的という観点はその選挙の意義、内容、あるいは立候補者とかのメンバーとかの作り出す状況性とも大いに関係ある。例えば特に有力な立候補者の中の一方が必ず今回は勝利するであろうと思われる場合の投票意志は全くどちらかが勝利収めるかが皆目検討がつかない場合とは異なった投票意志を生じさせる。もし大勝利が決定的であると察せられる場合自己の一票がそれほどの大きな意義がないのではないか、と感じられる場合、他に色々の雑事のある場合今回は行かないようにしようとかの棄権意志が生じやすいであろう。それは参加を機軸にすれば、明らかに消極的な参加意志表明である。だがそれでも国民の、市民の義務履行意識がそれよりは少し高ければ、どちらの候補ともそれほど鮮明に賛意を表明出来はしないものの、どちらかというとこちらの候補の方がよりよい(つまり当選した暁にはよい政治的な結果を生じさせるのではないか、という臆測の下に)という判断によってどちらかの候補に取り敢えず一票を投じる、しかも本来は行かない場合も多いのだが、今回は参加することで何らかの意志表示をしよう、というのも日頃マスメディアが作り上げる世論という幻想に飽き飽きしているとかの場合、民意はそうではないぞ、国会の決議も必ずしも民意を反映してはいないぞ、という場合などは、仮に鮮明に支持すべき候補のいない場合でさえ、積極的に賛意を表明する意味で恣意的に誰かを選び投票する場合もある。得てしてそういう場合はある政策を巡って対立する考えが国会やマスメディアの話題において顕示されている場合が多いであろうから、そういう二者択一の選択の場合あくまで賛意という表明性においては積極的であるが、選択候補に関する支持性に関してはやや消極的である。なぜならマスメディアの作り出す民意の幻想や国会の決議自体への批判票であるから、一票を投じるという行為性により重きがかかり、その一票を入れる候補への支持がそれほど強くはない、ということも十分考えられるからである。だから二者択一的に選択される場合、誰か鮮明に支持すべき候補者がいる場合と比べると明らかに義務遂行的であることは間違いない。鮮明に支持すべき候補に一票を入れる場合は義務意識からではなく、もっと主体的な参加意志表明型であるからである。しかし二極分離的に主要候補者同士の一騎打ちである場合以外の、例えば数名の候補者が団栗の背比べである場合は、その数名の中からなら、この候補、あの候補が一番まともであると思われる場合、その候補を義務履行的に入れるということがあり得る。この選択は二極分離である場合同様支持性に関しては消極的であると言えよう。ここでちょっと纏めておこう。下図のようになろう。
1、政治参加意志の積極的表明型
①積極的支持候補者へ投票する
②積極的支持候補者不在であるにもかかわらず、誰かを熟慮の末に投票する
2、政治的参加意志はあるものの、今回は不参加を決め込む消極的表明型
①特定の候補がおらず今回は見送り棄権する
②選挙自体の意義に疑問を持ち今回は見送り棄権する
③どちらか一方の候補者が勝利することが鮮明に了解し得るので今回は敢えて投票するべくもないと思い棄権する
ここで積極性というものについて考えると、まず選挙自体の意義の肯定という意味においては、1の①、②、2の①、②が同等のポテンシャルを持っていると考えられる。しかしやや2の①が積極性において劣るというくらいであろうか。それに対して2の③は明らかに消極的な自己有権に対する姿勢である。今度は選挙自体ではなく、候補者に対する当選して欲しいという観点から見た積極性(支持積極性)においては、1の①、2の①が積極的な支持、不支持の意志表明を持っているのに対して、それ以外は2の②が全く異なった観点であるためにプロテスト的な姿勢であることを除き更に、2の③が最も消極的な支持性の表明であることを除けば皆同等の消極性に裏打ちされている。ただ1の②は消極性の中ではやや積極性が強く、積極性の観点からは義務履行的側面が強く、積極的であるよりは致し方なく、止むを得ずという側面が強いものの、選挙参加姿勢に関しては一番強いという風にも考えられる。
この中でも実は2の②は一番選挙の実施自体の意義について考慮を持っている。というのも選挙を意味あるものであるか、そうでないかという観点において言及した行動を採用しているのがこれだけだからである。その意味でこの選択は積極的な選挙実施に対する意思表示であるとも言えるのである。これはだから理性論的選択であり、そうではないこれ以外の選択は積極的に誰か特定の候補に投票する場合(その候補の政策面において共鳴を持ち選挙の実施自体にも共鳴しつつ)だけを除き、たとえ贔屓の候補に投票してさえその投票行動を支える心的な様相においてはただ選挙があるから自動的に投票所へと赴くという無意識に因果的な行動でしかないからである。そういう無意識の内の反射的行動における選択は理性論的な選択とは言えない。それらはあくまで常識追従型の選択であり、社会通念踏襲型の選択である。だからと言ってそれらをまるっきり条件反射的な行動だけである、とも言い切れない要素は残る。それが慣習的コードでもある義務遂行的行為である。義務は納税とか所謂法的な義務だけをここでは指すわけではない。あくまで社会通念的な意味での社会人行動の規範に則った行為を全て指すのである。こういった行為は慣習的な行為は皆規則遵守、慣習踏襲の逸脱行動忌避型行為選択とも言える。
しかし一旦選挙が行われ、今度はその有権者の投票結果が判明するに至り、その結果が自己の入れた候補が当選しない場合はともかく、自己の入れた候補が当選する場合、その候補を迷わずに選択した贔屓筋ならいざ知らず、苦渋の決断や熟慮に熟慮を重ねて要れた場合(そういうケースではえてしてそれ以外の選択肢が見つからない場合や渋々要れるということが多いので)、贔屓筋以上にその後の政治的展開において期待以上の活躍を見込めない場合には失望感がより大きいと思われる。だから逆に入れた相手の属す党が予想に反して当選した場合(あまり当選するということを期待して入れない、つまり批評票的入れ方)最初からの贔屓筋よりも苦渋の決断や熟慮後の決断で入れた場合の方が後悔の念は少ないということはあり得る。何故ならただ単なる贔屓筋で入れる場合には明らかに「活躍して欲しい」という理性的判断であるよりは、レジャー的意識が強いし、また批評票的な場合それはあくまで勝つ側を想定してそうではない側に入れるわけだから、それが予想に反して当選してしまったということから逆に意表をつかれてしまうから、嬉しいとも後悔があるとも言えない感情に襲われるだろうし、逆に真摯に考え抜いてその入れた候補が当選した場合、熟慮して入れた甲斐があったと思うからだ。しかし迷わずに入れた場合自己の選択基準とは異なった受け取られ方において予想以上の議席を贔屓党自体が獲得すると、その勝利に対する奢りを戒める意味での反対票の少なさからある種の懸念を持つに至る場合もあろう。しかしこういった場合でもその後の活躍次第では苦渋の決断や熟慮後に投票した場合よりも明らかに失望感は少ないであろう。しかし熟慮して入れた場合(限りなく反対勢力に対しても同様の期待感を持っている場合)余程の活躍がないと失望感はより大きくなることもまた逆に自然である。あれだけ悩んで入れて損したと思うわけである。これは反動的な期待感に対する失望感と言えよう。そういう意味では迷いを吹っ切る場合に我々は迷いを消すに足る強い期待感と肯定意識を我々自身の内部に生むのである。 さてこのように考えてみると、躊躇いを持って投票した場合には明らかに期待感は倍増されるという現実もあり得る。またこうも言える。期待感はなくても贔屓である候補が自己によって投票された者だけである場合は、さほどの活躍が当選後に見られなくても、盲目的である要素も強い贔屓心から、批判精神は最初からないのだから、そういう場合は格別の失敗をしない限り贔屓心は変更されないものである。躊躇いなく入れる場合でも政策面での共鳴によって入れた場合は、人物評価とか好人物であるという判断から入れた場合よりもより政策実効性において期待にはずれると失望感は倍増される。それは好人物であるとか(メディアの与えるイメージの問題として)のような軽い気持ちとは訳が違うと言うことは言えるし、具体的に掲げる公約として政策面からの活躍に対する期待感があるのであるから当然である。だから人物評価とか好人物性によって選択した迷いなしの投票者よりも理性論的な政策面、公約規定論理性によって選択する迷いなしの投票者の方がより大きな失望感を期待が裏切られると味わうこととなる。支持する意識が萎えてくるのである。急速に萎むのである。
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